「“できすぎる障害者”は障害者ではないのか?」──構造に潜む差別を見つめて

高次脳機能障害 × 生きる力

ある時、ふと疑問が浮かびました。

「もし“障害者”のイメージが、能力が低いことに結びついているとしたら──
それは、“わかりやすい障害像”しか認められていないということではないか?」

子どもの頃から、テレビやメディアが描く“障害者”には、ある種のパターンがありました。
ゆっくりと話す、介助が必要、感動的な努力──
そうした姿ばかりが繰り返し取り上げられていたように思います。

SNSでも目立つのは、「がんばっている姿に感動した」といった“理想の障害者”像。
でも、現実の障害者はもっと多様で、もっと複雑です。

世の中の多くの人が、限られたイメージから
「障害者とはこうあるべき」と、無意識のうちに枠を作ってしまっているのではないか。

そんな違和感を、私はずっと抱えてきました。

この文章は、“障害者らしさ”という幻想に傷ついてきた私の経験と気づきから生まれました。
同じような違和感を持つ誰かに届けば──そう願って書いています。


🟦 「できすぎる障害者」は、なぜ受け入れられないのか?

私は、かつて精密な管理や判断が求められる業務領域に携わってきました。
品質や安全が最優先される環境で、
「ほんのわずかなズレが大きなトラブルにつながる」ような現場に、幾度となく向き合ってきました。

その中で私は、「厳密に設計する」「根拠を持って行動する」姿勢を自然と身につけました。

それは今でも変わりません。
しかし、障害を負ってからというもの、その経験が逆に「障害者らしくない」と見なされることがあります。

「それだけできるなら、一般枠で働けばいいのに」
「まじめすぎる。融通が利かないよね」
「なぜそこまで準備にこだわるの?」

この言葉の裏にあるもの──それは、「障害者=能力が低い存在でなければならない」という暗黙の構造差別です。

🟦 「まだ誰にも言われていない」──けれど私は気づいている

実のところ、私がここまで考えるに至った背景に、
「誰かに直接言われたから」ではない。

日々の経験、繰り返される些細な反応、
空気のわずかな揺れの積み重ねから、私は“察して”いる。

それは、私自身の障害特性──
たとえば過去の出来事を深く掘り下げ、先回りしてリスクを考える傾向が
影響しているのかもしれない。

でも、確かに一度だけこう言われたことがある。

「障害者なのだから、遠慮しろ」

その一言が、心の奥に刺さっている。
そして私は、誰にもはっきりとは言われなくても、
何かが“押し返される感覚”を何度も味わってきた。


🟦 私が“こだわることにこだわる”理由

なぜ私は記録を重ね、細かく確認し、あいまいさを排除するのか。
それは「ただのこだわり」ではない。

私は、過去に「曖昧な言葉」や「後出しの要求」で何度も傷ついた。
言った言わない、責任転嫁、暗黙の強要──
それらから身を守るために、私は構造的に「自分を守る技術」を作ってきた。

こだわりは、防衛だ。
信頼のための設計だ。
私にとっての“誠実さの表現”なのだ。


🟦 「障害者らしさ」という幻想に抗う

「障害者なら、もっとできないはず」
「障害者なのに、なんでそんなにちゃんとしてるの?」
そう思われること自体が、能力を持つ障害者への否定である。

でも、それは違う。

障害とは「できないこと」ではなく、「そのままでは社会と噛み合わないこと」。
だからこそ、その人に合った関わり方や支え方があれば、
その人はその人らしく、尊厳をもって生きられる。
私はそう信じています。

私には、支援が必要な特性がある。
でもそれと同時に、一人で複雑なシステム全体を俯瞰し、最適化できる力もある。

それは「例外」ではない。
それこそが、多様性の本質だ。


🟦 「真面目すぎる」の裏にあるもの

私はよく言われる。「真面目すぎる」「細かすぎる」「柔軟性がない」と。

でも、それは「守りたいから」「裏切られたくないから」そうしている。
あいまいにしないのは、「責任を押しつけられないため」だ。
構造を作るのは、未来の誰かを守るためだ。


🟦 だから、声をあげる

「できる障害者」が弾かれる社会は、
「できないふりをした人間」しか受け入れない社会に向かっている。

私は、それを認めない。

私は、障害者であり、専門性を持つ人間として、
誇りを持って、正確に、しなやかに生きている。

そしてその姿を、ねじ曲げずに伝えていく。
構造から問い直すという姿勢こそが、これからの道だと信じている。

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