できない自分を受け止めるまで──記憶障害とともに歩いた日々

高次脳機能障害 × 生きる力

はじめに

病気を発症した当時、私は何が起きたのかすら理解できませんでした。
それまで当たり前だったことが、急にできなくなる。
そんな現実に直面しても、私は事態を正しく認識できませんでした。

受け止められなかった日々

怖い、悲しいという感情すらありませんでした。
私にとって「できること」は、呼吸と同じくらい当然のものであり、
やれば必ずできる、努力は裏切らない、乗り越えられる。
それを疑う発想すらありませんでした。

できなくなった現実は、私にとって意味不明でした。
理解できないまま、私は「やれるはずだ」と信じて動き続け、
そしてすべて失敗していきました。

「迷惑をかけたくない」という高尚な気持ちも、当時の私にはありませんでした。
ただ、自分の能力を失ったと認めたくない、その一心で、無理を重ね続けていました。

失敗し、打ちのめされ、自己否定の感情が芽生えます。
しかし、悲しいことに──それすらも時間がたつと忘れてしまい、
何度も何度も同じ挑戦を繰り返し、同じ絶望を味わっていました。
それが、記憶障害を抱えた私の日々でした。

小さな成功体験との出会い

そんな中で、私はメモを取り始めました。
しかし、メモを取ったことすら忘れることがありました。
気がつけば、膨大な数のメモに囲まれ、
どれが正しいのか、どれを信じればいいのか、わからなくなっていました。

メモが私を救うどころか、混乱を助長することもありました。
それでも、私はメモを取り続けました。

そうして数えきれない試行錯誤を繰り返すうちに、
どうすればこのメモたちを「活かせる」のか、
少しずつ感覚が研ぎ澄まされていきました。

それは、小さな、しかし確かな「できた」という実感でした。

できないことが「悪」ではないと知った

今の私は、「できないこと」が必ずしも「悪」ではないと、
頭でも心でも納得できるようになりました。

しかし、現実は違います。
できないことに対する偏見や誤解、冷たい視線に、
私は今も常に晒されています。

障害との闘いとは、自分との闘いを越えたあと、
周囲との闘いが待っているのだと、痛感しています。
この戦いに、終わりはないのかもしれません。

いま、そしてこれから

私は、前向きな気持ちでこの歩みを続けているわけではありません。
むしろ、できないものはできないと、あきらめたからこそ、ここに立っています。

「障害に負けた」と感じています。
けれど、負けっぱなしで終わるのは、どうしても悔しい。
どうせならこの障害を徹底的に分析し、逆に利用してやる。
今は、そんな気持ちでいます。

私は、きれいな心を持った障害者ではありません。
腹黒い感情を抱えながら、それでもなお、
この世界を歩く方法を探している。

それが、私のいま、そしてこれからです。

※私は、「思い出せない自分」「続きから再開できない自分」を受け入れたうえで、
“明日の自分がまた動き出せるように、今日のうちに仕掛けを残す”という方法を取っています。

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