🟦 穏やかな問いかけに、なぜか答えられない
就労移行支援では、帰宅前に「今日は何をしましたか?」と、一日の振り返りを求められます。
落ち着いた時間です。職員さんもとても穏やかに声をかけてくれます。
最近の私は、比較的安定してこの問いに答えられるようになってきました。
しかし、以前はまったくと言っていいほど答えられませんでした。
そして今でも、疲れがたまっている日にはうまく思い出せなくなることがあります。
頭の中がすっと白くなり、何も出てこない──。
そんな状態が、以前は毎日のように起きていました。
今は少しずつ改善してきたものの、その脆さは今も、疲れの中に潜んでいます。
🟦 真っ白な頭の中──パニックではない、ただ何もない
この状態を「焦っている」「緊張している」と思われるかもしれません。
けれど、私はその瞬間、焦っていません。
職員さんの声も優しいし、雰囲気も落ち着いています。
ただ──何も出てこないのです。
まるで脳の引き出しが全部閉じられ、鍵をかけられたような感覚。
検索窓に言葉を入れても、検索結果がゼロで返ってくるような静かな空白。
🟦 思い出せる条件がある──“ヒント”が鍵になる
けれど、思い出せないのは本当に「何も記憶していない」からではありません。
視界にメモや配布資料が入ってくると──一気に記憶が呼び戻されることがあります。
「あ、そうだ。あの人とあの作業をした」
「このチェックリストをつけた記憶がある」
まるで凍っていたファイルが一斉に解凍されるように、
いくつもの出来事が次々と浮かび上がってくる感覚です。
私の記憶は、“自発的には出てこない”けれど、正しいきっかけがあれば一気に開き直るのです。
🟦 「言えばいいのに」では済まされない
この現象に対し、周囲は「言えばいいのに」と感じるかもしれません。
けれどそれができるなら、私はとっくにそうしているのです。
「思い出せない」のではなく、「アクセスできない」。
その瞬間、頭の中は静かすぎて、むしろ何かを探している感覚すらありません。
とはいえ、外から見ると「急に黙る」「動きがぎこちなくなる」「そわそわする」「何かを探し始める」など、違和感のある挙動に映るかもしれません。
人によって反応はさまざまですが、そのすべては脳が情報にたどり着けずに試行錯誤している状態です。
以前、同じ高次脳機能障害を持つ当事者の方と会話をしていたとき、
相手が突然言葉を止め、動きも変わったことがありました。
そのとき私は、何も言わず、何も求めず、ただ待つという選択をしました。
それは、私自身がそうしてほしいからです。
この「言えない状態」に対して、焦りや苛立ちではなく、
ただ“何もない静けさ”を尊重してもらえることが、どれほど救いになるか。
沈黙の奥にあるものを、どうか「無視」や「不安定」と見なさないでほしい。
それは、ただ脳が“今、手探りで探している最中”なのです。
🟦 思い出せたとき、職員さんは喜んでくれた
たまに、何かを思い出せる日もあります。
そしてそのとき、職員さんはとても喜んでくれます。
笑顔で「よく覚えてたね!」と言ってくれる。
この笑顔は、記憶が出てきたこと以上に、
「ここにいていいんだ」と思わせてくれる、大きな安心感をもたらします。
🟦 思い出しやすさには“疲れ”との関係がある
記憶が思い出せるかどうかには、もう一つの要因があります。
それは「疲れ」です。
私はグループ活動など、対人の負荷が高い日にはぐったりと疲れてしまいます。
そんな日は、帰り際に記憶をたどろうとしても、まるで何もなかったかのように頭が空っぽになります。
けれど、最近は以前ほど疲れを感じなくなってきました。
日中の活動も自然にこなせるようになり、通所後もぐったりしなくなったのです。
すると、不思議なことに、記憶も少しずつ出てくるようになってきた。
これは、私の脳そのものが回復したというより、
環境に馴染み、安心できるようになったからだと思います。
🟦 この体験を伝える意味──「焦ってない沈黙」もある
「思い出せない」「言葉が出ない」と言うと、
人はつい「焦ってるのかな」「緊張してるのかな」と考えてしまいます。
でも、私の中にあるのは、静かな空白です。
責められてもいない、焦ってもいない、ただ情報にアクセスできない状態。
これは「甘え」ではなく、私の脳の特性です。
それでも、記憶は残っているし、呼び出す力も少しずつ戻ってきています。
だから私は伝えたい。
「言えばいいのに」と思われてしまうこの沈黙にも、意味があるのだと。
そしてその沈黙は、適切な環境と人の笑顔によって、
少しずつ、言葉に変わっていけるのだということを。