非常識な人間を「脳に障害がある」と言わないで──その言葉が突き刺さる理由

高次脳機能障害 × 社会との接点

🟦 はじめに

SNSでは時折、マナー違反の車を晒す投稿が流れてきます。
駐車場で周囲を無視して横着に停めた車。たしかに、常識を疑いたくなるような行動です。
でも、そんな投稿のリプライ欄に、決まって書かれている一言があります。

「脳に障害があるんじゃないの?」

私は、この言葉を見るたびに胸が締めつけられるような思いになります。
なぜなら私は、脳に障害を持つ当事者だからです。


🟦 無意識の差別は、最も鋭く人を傷つける

この表現は、はっきり言って差別です。
しかも、差別している本人はその自覚がないまま、それを**「正義の皮をかぶった皮肉」**として口にしてしまう。

「常識外れ」「恥知らず」「育ちの悪さ」など、行動を批判する言葉は他にもあるはずなのに、なぜ「脳に障害がある」が選ばれるのか。
それは、「自分より下」と見なせる存在にラベルを貼りつけることで、溜飲を下げたいだけなのだと思います。

でも、そのラベルの下で、静かに、真面目に、生きている人たちがいます。
まったく無関係なのに、あたかも「社会に迷惑をかける存在」として嘲笑されてしまう──
それがどれほど不条理なことか、想像してもらえますか?


🟦 偏見が生まれる背景──知らないから、恐れてしまう

「脳に障害があるのでは?」という表現は、障害への無理解や無関心、あるいは恐れから生まれることが多いのです。

人は未知のものに対して不安を抱きやすく、理解できない行動に出会うと、それを「障害のせい」と短絡的に結びつけてしまう傾向があります。
しかし、障害を持つ人々の行動や背景は一様ではありません。
「非常識な行動=障害」という決めつけは、誤解を助長し、当事者の尊厳を踏みにじることになります。


🟦 社会が再生産する差別構造

偏見は個人の心の中だけで生まれるものではありません。
それは、社会の中で育まれ、強化されていく構造の中にあります。

例えばメディアでは、障害者を「弱く、守られる存在」と描くことが多く、
また教育現場でも障害のある子どもとの交流が少ないため、理解が深まりにくいまま大人になります。
さらに、就労や社会参加の場での不平等は、「障害者は社会に適応できない」といった誤ったイメージを定着させてしまいます。


🟦 言葉の力と、その責任

「脳に障害がある」という言葉は、思いつきやすく、使いやすく、強烈なインパクトを持つ
でも、それは同時に、何の関係もない人たちを巻き込み、心を深く傷つける言葉でもあります。

誰かの非常識に怒るのは当然です。
でも、その怒りをぶつけるために、差別という道具を使わないでほしい


🟦 おわりに

あなたの言葉が向かう先には、誰かがいます。
その誰かが、無関係のはずの誰かを、見えない刃で切りつけていることもあるのです。

言葉には力があります。
怒りを表現するなら、どうかその力を、正しい方向へ使ってください。

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