過集中で壊れていった私──止まれなかった記憶と回復への道

学びと気づき

「止まれなかった私へ」──過集中で壊れていった記憶と、そこからの回復

退院して一か月が過ぎた頃、私は仕事を再開した。
といっても、それは簡単な作業のはずだった。
手順書に従って、データを出力して集計する。
いわば“ボタンをポチポチ押すだけ”の、頭を使わなくてもいいお決まりの作業。
今までなら、10分もかからなかった。

それが――6時間かかっても終わらなかった。

一度目と二度目に出力した結果が違っていた。
「なぜ?」という疑問が頭にこびりついて離れず、私は自分の出した結果を疑い始めた。
そのうち、原因を確かめるためにプログラムコードを開き、解析を始めてしまった。
やがて、気がつけば深夜0時を過ぎていた。

それでも私は止まれなかった。
「この作業は必ず終わらせなければならない」
その思いに囚われていた。
疲れていることにも気づかず、いや、もしかしたら気づいていたのに、それを無視していた。

呼吸は荒く、頭はガンガンと痛む。
目の焦点が合っていないような感覚。
妻は、私の顔を「この世のものとは思えない般若のようだった」と言った。

妻は最初、何度かそっと声をかけてくれていた。
「今日はもうやめよう」と。
でも私は怒った。
止めようとする声さえ、作業の邪魔に感じてしまっていた。
やがて、彼女は何も言わなくなった。
ただ静かに、泣いていた。


なぜ私は止まれなかったのか

あとから振り返って思う。
あれは「頑張っていた」のではなく、「止まれない脳」だった。

高次脳機能障害を抱えた脳は、いったん過集中の状態に入ると、
「今していることを中断する」という判断が極端に難しくなる。
しかも私は、過去の自分と今の自分を比べていた。
「前はできた。なのに、なんで今はできないんだ」と。
それが、自分をますます追い詰めていった。

そして、「できない自分には価値がない」と思い込んでいた。
だから、必死だった。
できるようになることが、生きている証明のように感じていた。


あの頃の私に、今の私が伝えたいこと

今の仕事は辞めていい。
命のほうがずっと大切だ。
お金のことは大丈夫。
焦らなくていい。
これは「逃げ」じゃない。「選択」なんだ。

できていたことができなくなった。それは喪失かもしれない。
でも、それは“変化”であって、“終わり”ではない。

準備する力、全体を見渡す俯瞰力、他者に寄り添って教える力。
それは「お金になる価値」だ。
実際に、私は今、その力で感謝されるようになってきた。
仕事の形を変えれば、必ず活かせる。

昔の自分には戻れないかもしれない。
でも、「新しい自分」にはなれる。
それは過去の自分の劣化版なんかじゃない。
まったく別の、新しいバージョンなんだ。


いま、止まれずに苦しんでいるあなたへ

もしかしたらこの記事を読んでいるあなたも、今まさに「止まれない状態」にあるかもしれません。
誰もが「やめればいい」と簡単に言う。
でも、やめられないんですよね。
止まった瞬間、自分が壊れてしまいそうで。

でも、こう思ってほしい。

あなたが止まれないのは、弱いからではない。
それは、**脳と心が「生きようとした結果の暴走」**なんだ。
だから、恥じることではない。

そして、あなたにも「止まる方法」はある。
私は今、それを学び始めている。
相談機関もある。
同じように苦しんできた人たちがいる場所もある。

だから、どうか覚えておいてください。
「止まること」は、諦めではなく、生き直す選択です。


あとがき

ここまで読んでくださってありがとうございます。
この記録は、かつての私自身の体験であり、
いま同じように苦しんでいる方に届けたくて書きました。

この体験が、誰かにとっての「気づき」や「救い」になれば嬉しいです。
これからも、無理せず、少しずつ、自分に合った道を探していきましょう。

※私は、似たような“思考が止まったまま再開できない”状態を防ぐために、
“再スタートできる仕掛け”をあらかじめ用意するようになりました。

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