🟦 はじめに:「無理しない」が目標なのに、なぜ無理してしまうのか?
通っている支援先では、よくこう言われます。
「無理をしないでくださいね」
「頑張りすぎないようにしましょう」
「ちゃんと休むことも、仕事ですよ」
頭ではわかっているつもりです。「その通りだ」と思う自分もいます。
でも、なぜか私は“休めない”のです。
休むことが怖い。
休むと、何か悪いことが起こる気がする。
気がつけば、「もう少しだけ…」と続けてしまう。
通所中の目標には毎回「無理をしない」と書いています。
けれど、その目標を守れた日は、今まで一度もありません。
それは私の意志が弱いから?
いいえ、きっとそうではありません。
そこには、私自身も気づいていなかった「理由」があるのです。
🟦 無理している実感がないとき──夢中になっているとき
「無理してはいけない」と言われても、そもそも私には「無理している」という自覚がないときがあります。
なぜなら、そのとき私は“夢中”だからです。
頭の中には、ただ一つの願いしかありません。
「この問題をクリアしたい」
「気持ちよく終わらせたい」
「このもやもやを、スッキリさせたい」
気がつけば、何時間も作業を続けています。
疲れを感じていても、「もう少し」「これだけ」と、自分に言い聞かせるように。
でも、それにはもうひとつ理由があります。
私は作業を途中で止めると、記憶がリセットされたように飛んでしまうことがあるのです。
再開しようとすると、どこまでやったのか、何を考えていたのか思い出せず、時間がかかってしまう。
だからこそ、「今やってしまいたい」と強く思ってしまうのです。
これが、「止まれない」「休めない」私の第一の姿です。
そして、もっと深いところには、もうひとつの大きな感情があります。
それが——見返したいという気持ちです。
🟦 心の奥にあるもの──“見返したい”という気持ち
私は過去に、ある職場で、非常に強い屈辱的な扱いを受け続けてきました。
- 電話をかけると、赤ちゃん言葉で返される
- 開口一番、文句や怒りの声が飛んでくる
- 話の途中で一方的に電話を切られる
- どの時間に電話をしても「この時間は困る」と言われる。
- こちらが障害を抱えている立場であることを逆手に取られる
こうしたやりとりが何度も何度も繰り返されるうちに、私の中に怒りと屈辱が蓄積されていきました。
「見返したい」「悔しがらせてやりたい」
その思いが、気づけば私の行動の燃料になっていたのです。
🟦 それでも「休まない」理由
ここまで読むと、こう思う人がいるかもしれません。
「なら、もうその場所から離れたのだから、休んでもいいじゃないか」と。
でも、それができないのです。
私の中には、まるで戦国時代の復讐譚のような言葉が息づいています。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
報讐雪恨(ほうしゅうせつこん)
蛟龍、淵にひそむは昇らんがためなり
私は、燃え尽きるように働いても、倒れるように動いても、「まだだ」と思ってしまう。
「今は身を屈して、時を待つ時期だ」と思ってしまう。
そして何より、「休むこと」自体が怖いのです。
なぜなら、休もうとした時に限って、過去の職場から電話が鳴る。
外出しようとすると、タイミングを見計らったように連絡が来る。
そうした“偶然”が重なって、私は次第に休むことを諦めるようになったのかもしれません。
🟦 「勝利」とは何か──目指す未来
では、私が求めている「勝ち」とは何でしょうか?
それは、過去の職場を完全に切り捨てて、
新しい仕事に就き、
今よりも多くの給料をもらい、
安定した正社員として、
安心して暮らせる生活を手に入れることです。
そのとき、私はこう言いたいのです。
「あの頃、無理をして頑張った自分は、間違っていなかった」
「もうあの場所に戻る必要はない。よくやったね」
「休んでいいよ」と。
その時が来たら、私はたぶん、嬉しさで泣いてしまうかもしれません。
🟦 終わりに:「休む」ことは、戦略でもある
「休むことは大事ですよ」と、何度も言われてきました。
高次脳センターの方々にも、繰り返しそう言われました。
その言葉が、ようやく少しだけ、心に響いてきた気がします。
「休む」は、逃げじゃない。
「休む」は、準備でもある。
そして時には、「伏して牙を研ぐ」ための、大切な時間でもある。
まだ私は、「戦略的に休む」ことがうまくできません。
でも、このブログを書くことで、少しずつでも「休んでもいい自分」へ近づいていけたらと思っています。
※私は、「今やらないと忘れてしまう」「再開できないかもしれない」
という不安を和らげるために、翌日の自分が再起動しやすい仕掛けを準備しています。